ノルウェイの森(1987)/村上春樹 (未だ執筆中)


俺はというと、14日になったその瞬間、ノルウェイの森を読んでました。村上春樹25周年だかで、リニューアルされてるんですよね。毎月2冊づつ。だいぶ昔に読んだ記憶はあるんですが、何となく買っちゃって読み直してました。



その時の帯には、「究極の恋愛小説!」と銘打っていたけれど、そんなんではない気が…。



ちなみに、発売当時は大ヒットしたらしいけど、そのとき俺はまだ2歳ですのでそんなことは全然知りません!



なので、予備知識なしでの感想ですが、こっから先は読んだ人前提でどうぞ。読みながら書いてるわけじゃないので、細部が間違ってるかもしれませんが('A`)




  • 登場人物について


完全に自分と似ている!と自己投影するような唯一の対象は居ないんだけど、登場人物一人一人に多かれ少なかれ自分との共通部分を見出せるんですよね。


例えば、直子なら不完全な感情を言葉で表現出来ないモドカシサであるし、永沢なら傲慢さの背景にある努力であるし… そんな感じで、イチイチ感情移入して読んでしまうんですよね。


この作品、メインとなって関わっているのはワタナベ(僕)、直子、緑の3人ですが、それ以外の登場人物も何かしら、筆者の伝えたいことが含まれているような気がします。3人は作品の主題担当ですが、それ以外は副題担当、みたいな。もちろん、それ以外の登場人物がいなければ、主題は語れないんですが… 自らの表現不足を感じるなぁ。



あと思ったのは、登場人物の個性や思想はハッキリとして在る反面、登場人物間の関係はドライな感じですよね。僕の回想だから生々しい感情的な繋がりってのはカットされてたのかな。


  • 直子について

作中、僕の想い人であり、相思相愛なような展開もあったけれど、終始直子が僕に対して積極的にアプローチすることは無く、僕が直子にアプローチしてそれに応えるという感じだったと思う。


第一章の最後で、「直子は僕のことを愛してさえいなかった」と現在の僕は回想しているけれど、そのとおりだったんじゃないかなぁ。


思えば、直子は登場時から既に病んでいたんでしょう*1


「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」


これが、僕と現在の僕にある共通認識として出てますよね。そして主題であると言えるでしょう。


これにおいて、直子は死のイメージに近い人間であったといえます。引きずっている…というのも変だけど、キズキの死をきっかけに更にそのイメージが具体化していったんだろうと思います。

  • 緑について

通して見ると、直子と対比される人物とされます。主人公が緑に屋上で告白され、それに応えた後、レイコさんに相談の手紙を書く場面がありますよね*2。その際に主人公は、彼女らに対する感情をこう手紙に書いています。


「僕が直子に対して感じるのはおそろしく静かで優しくて澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。それが僕を揺り動かすのです。」


立って歩き、呼吸し、鼓動するのは生きているからですよね。要するに緑は生のイメージの象徴として存在しているのです。


また、性に関しても同じことが読み取れます。緑は突拍子も無くエロティックな想像を始めるような、快活な性を持ってますが、直子は僕と誕生日の日に関係を持った一度以来、どんなことをしても濡れません。直子自身が不思議に思うぐらいに。


もしも僕が緑と出会ってなかったら、恐らく死んでいたでしょう。直子の死後、僕は直子の死のイメージに取り込まれそうになっていましたから。その意味では、緑は僕を救った人物といえるでしょうね。

ちょっと俺っぽい視点から見ると、まず気になるのはやはり死生観かな。神道において死とは生の一部というよりは、別世界という位置づけになっています。所謂穢れの世界ですね。生の世界と死の世界は行き来出来るもの*3という扱いになっています。


また、他の視点から見ると、仏教なら輪廻転生だし、エジブト神話なら生の贖罪、ゲルマン神話ならば生の延長、ケルト神話になるとそもそも死後の世界は存在しないことになっている。


こんな具合で、どれとも一致しない見方なんですよね。しかしながら、何となく「そうかもしれない」と思わせる。死生観の新説とも言えるんだろうなぁ。

*1:病んでいる=不完全であると考えれば、この表現は適切ではないかもしれないけど

*2:下巻第10章末

*3:とはいえ、タブーとされてはいましたが